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     5.May.2007

Glengyle蒸留所は1873年William Mitchell & Coによって設立された。
1919年West Highland Malt Distilleries Ltd の手に渡ったが1925年に閉鎖された。
2004年3月スプリングバンク蒸留所のフランク・マカディー氏等によって古い建物は美しく修復され再びオープンした。スチルはフランク氏がかつて勤めていたインバーゴードン・グレーン蒸留所にあったベン・ウィヴィス蒸留所のスチルが使われ、造りだされるシングル・モルト・ウィスキーはKilkerranと名づけられた。
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甦ったキャンベルタウン・モルト                  
再開した古の香り


グレンガイル蒸留所設立3周年記念パーティーの招待メールがスプリングバンク蒸留所のフランク・マッカーディー氏から届いた。私が6度目のキャンベルタウン取材の準備をしていたときである。「Glengyle」この名前は失われた蒸留所を巡る旅をしている私にとってとても大切な名前であり、予想だにしなかった突然の誘いに胸がときめいた。

キャンベルタウンの栄枯盛衰
再開された蒸留所


かつてキャンベルタウンには40箇所とも言われるくらい多くの蒸留所があり栄華を極めていた。しかし様々な要因からそれらのほとんどは過去のものとなってしまい、今では蒸留所の建物はほんの僅か残っているものの、その多くは取り壊され、塀となった壁の一部や、朽ち果てた建物などが町の所々に残り、かろうじて当時の面影を今に伝えている。その中でひたすら逆境に耐え自分たちの信じたウイスキー造りを3世紀にわたり続けてきたのが、スプリングバンク蒸留所とグレン・スコシア蒸留所だ。なかでもスプリングバンクは世界的に根強いファンを持つスコットランドきっての蒸留所である。


1877年のグレンガイル蒸留所。後方、湾の対岸にロッホルアン蒸留所やワームタブが見える。翌年、湾が埋め立てられキンロッホ・パークとなった。

そのスプリングバンク蒸留所の北側に2004年の春再開されたのがグレンガイル蒸留所だ。ここのオリジナルは1873年の創業で1925年に閉鎖されたが、建物だけは比較的良い状態で残っていた。そこにフランクが、彼がかつてウイスキー造りのキャリアをスタートさせたときに使っていたインバーゴードンのベン・ウィヴィス(1965-76)のスチルを運び込んで再稼働させたのだ。その時も偶然にもキャンベルタウンを訪れていた私はニュースピリッツを味わうことができた。それから3年、フランクのウイスキー人生の集大成といえるグレンガイル蒸留所のスピリッツが「Kilkerran(キルケラン)」と名づけられ、生命を吹き込まれたウイスキーに変わる時が来た。

スコッチ党の集う
愉快なパーティーに酔う



キンタイア・パイプ・バンド・スクールのメンバーによる強烈なセッション。

パーティー前日は「Campbeltown Malts GLENGYLE」のペイントが施されたダブルデッカーが関係者を乗せ街中を走り、人々にグレンガイルの名前をアピールしていた。
当日あいにくの小雨模様ではあったが夜七時半からパーティーは始まった。会場となったのは蒸留所内の倉庫で大きなガスヒーターが二基焚かれている。小さなステージが用意され、その両側にはカウンター。一方はオードブルが置かれ、もう一方はバーコーナーだ。簡単な椅子とテーブルが置かれているだけのシンプルな会場では、いつ始まるともなく三々五々集まってくる人達がかってに座り会話を楽しんでいる。しばらくすると一人の女性が恥ずかしそうにステージに上がり「食べ物はこちら、飲み物はあちら、外にはフィッシュ&チップスのデリバリーがあります。自由に楽しんでください。」と一言。挨拶らしい挨拶はそれだけでパーティーは始まった。日本のお堅いパーティーを想像していた私は拍子抜けしたがこれで良いのだ。来ている人達は皆、このパーティーが持つ意味を理解している。
ビールもウイスキーも飲み放題!!!お酒が入るとより会話も弾んでくる。最初私達しか座っていなかったテーブルにもあちらこちらから人が来て声をかけてくれる。つたない英語と身振り手振りでもコミュニケーションはバッチリだ。ステージ前のスペースにドラムとバグパイプの演奏チームが円形に整列して力強いリズムを刻み始めた。ドラムの鮮やかなバチさばきに思わず見とれてしまう。



地元のバンドによるライブ・ミュージック。スコッチにこれ以上の肴はない。

その後はステージ上でスコティッシュ音楽のバンド演奏が続く。小気味良いテンポの曲に合わせて手拍子を打っているとフロアではダンスが始まった。踊りの誘いを受けたが私にスコティッシュダンスなど踊れるはずもなく、丁重にお断りするも、隣にいた妻は手を引かれるまま中央の輪の中へ入っていった。なんでも「唯一の東洋人だからここはひとつ代表してちょっと頑張らなくちゃ」と、怖いもの知らずに出て行ったようである。そうは言っても今まで一度もスコティッュダンスなど踊ったことがないので、ステップはまるで解らないようだ。引っ張られるように手をつなぎ飛び跳ねる。右に左にと髪が水平にたなびく程のスピードだ。とにかくハードなダンスである。日本のフォークダンスを十倍激しくした位と言えばいいだろうか。一曲踊っただけで日ごろの運動不足がたたり、すっかり息も上がって彼女は戻ってきた。「何が何だか解らなかったけど、でもすごく楽しかった。」これが感想である。しかし私にはただ振り回されていたようにしか見えなかったが・・・。ところがこのお陰かどうかは解らないが、一気に周りの人たちが打ち解けてくれたのも事実で、妻の努力も実ったようだ。

新たなる友だちとともに
グレンガイルウイスキーに乾杯!


近々結婚をするデンマークのTrolle氏とKingさん。

夜も更け会場はますます熱気を帯びてくる。誰一人として帰ろうとする者はいない。私達もグレンガイルウイスキーのグラスを次々と重ねていった。なにしろおかわり自由、心ゆくまで楽しむことができるのだ。気がつくと会場には顔見知りも何人か来ている。ロイヤル・マイル・ウイスキーズのアーサー、ケイデンヘッズのマーク夫妻。彼らも踊り、飲み、パーティーを心から楽しんでいる。私達との再会も喜んでくれた。新しい友達も出来た。キプロスから来ていたPhilippou氏、デンマークのTrolle氏、ロンドンのFlorey氏などとも再会を約束した。
深夜12時を回り、さすがの私達もそろそろ重い腰をあげる頃。ポツポツ帰る人も出てきたが、フランクは相変わらずバーカウンターで飲み物をふるまっている。彼にホテルに戻ることを告げに行くと婦人を紹介された。フランクには国内外で何度も会っているが奥さんに会うのは初めて。世界のカリスマ的マネージャーを支えている上品で優しさが漂う方だ。

十九世紀のスチルマンたちと歩く。

外に出ると先ほどまで降っていた雨も霧雨に変わっていた。心地よい酔いのまわった私と妻は深夜のグレーブ通りを歩く。この道は19世紀後半、グレン・ネヴィス蒸留所やアードラッサ蒸留所が建設されたことにより新しく造られ、ウイスキー造りに携わった多くの人々が歩いた道である。
一度ウイスキー造りの世界から名を消した蒸留所が、同じような運命を辿った蒸留所のポットスチルを使い、再び新たな灯をともした。なんとも嬉しい話ではないか。再開した蒸留所のウイスキーを飲み、ウイスキーの街のウイスキーの道を歩く。とても感慨深いものがある。失われた蒸留所の取材撮影を続けている私へ、神様からの取っておきのごほうびのようで気分は高揚している。これだから、この旅はやめられない・・・。

pub摩幌美 堀内 貞明


屋根などが葺き替えられシンプルなデザインとなった建物は、ほぼ80年ぶりに元の使命に戻った。2004年春操業再開。



再びその役割を担ったベン・ウィヴィスのポットスチル。四半世紀は眠っていただけに天窓からの明かりが眩しいようだ。


キルケランは聖人ケランの小さな修道院がある湖の奥まったところを意味する地名。


蒸留所創設記念に飾られたキルケランの樽。


前日のキャンベルタウン地方新聞。


ダンスは延々と深夜まで続いた。


ウイスキー人生40年フランク氏の結晶。パーティーでふるまわれたポート樽熟成のkilkerran3年。


日ごろ自分を見せないフランク氏だが今日ばかりは嬉しそう。本日はバー・コーナー担当。


19世紀にタイムスリップしそうな深夜のグレーブ通り。
頭の上にはキルケランのボトル


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